体調不良とデータ分析

今までの人生の中で、これ程までに熱がある状態が続いているのは初めてじゃないかと思います。

とりあえず一週間近くになります。

 

結局先週は仕事を丸々休むことになってしまったわけですが、そういう時って気持ちも落ちるから、数年前に抑うつ状態になって仕事を休職した時のことが思い返されるんですよね。

職場に休みの連絡を入れるたびに「申し訳ない」という気持ちが起きちゃう。

なんのしがらみも考えなければ、「体調が悪いから休んで治す」のは“当たり前”なんだろうけど、なかなか…。

 

今回の体調不良は、「悪寒・頭痛・微熱」が続く、というもの。

1月の終わりにも同じような状況になり、一度38度超えたのでインフル検査するも陰性。今回も陰性。

37度半ば→平熱→37度半ば→38度→平熱→37度半ば…みたいな感じ。

最初の病院では漢方を処方されたのですが、なかなか症状は改善されないため昨日、休日診療の病院へ。

「多分、風邪だと思うけど、熱がある状態が10日以上続くようだったら血液検査した方がいいよ。あと、麻疹、風疹という可能性もあるから、体に発疹が出たりしないか気にしておいて。休み明け、改善されないようだったらもう一度来て。」という診断でした。

 

ボクはiPhoneの「ヘルスケア」っていうアプリで体温とか体重とかを記録してるんですが、この間、いつもよりこまめに体温を記録しておきました。

そのアプリのデータをさらっとグラフにできる機能があればいいのですが、なんかできなそうだったので、数日分をグラフに(実は、こういう作業嫌いじゃないんです)。

自分なりにこのルーツを辿ると、小・中学生の頃、ラジオやテレビでやっていた歌番組で紹介されるベスト10をノートに記録し、順位を数値化してその週のベスト10を自分なりに作っていたという…。

今にして思えば、あの頃からこういう作業が好きだったのかもしれません。

 

データといえば、学校も色々取る(取られる)ことがあるわけですが、「取りっぱなし(取られっぱなし)」データも少なくありません。

“分析”が難しいんでしょうね、きっと。

または、めんどくさい。

私の友達で、いろんなデータを掛け合わせて相関関係をチャチャッと調べちゃう、それはそれはすごい人がいるんですが、やっぱりデータは活かしてナンボです(教員になってからは、そういうことを必修で学ぶってことないからなぁ)。

 

とりあえず、今週は這ってでも出勤しなきゃ、というあまり良くないプレッシャーの中、(なんとなく薬で抑えられてる感じではあるものの)思ったこと書いとこ、ってことでつらつらと書いておきました。

体調不良で食欲が減ることはあまりないのですが、今回は食欲もあまりわかず、流石にアルコールもほとんど摂らず…。

結果、この一週間で3kg落ちました(ま、すぐ戻るだろうけど)。

 

兎にも角にも、このまま薬も効き、体力も回復し元気になりたいです!(と、子供のように叫んでみた)

怖いのは、「インフルは陰性」だった、ってこと…。

予防注射してないしなぁ。

 

皆様もお気をつけて!

 

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温度差

こんなボクでも“生活指導主任”なんてものをやってた時期がありました。
 
時々、「こんなとんでもないことをしちゃったんです。叱ってください。」みたいに、子供をわざわざボクの所へ連れてくる方がいました。
話を聞いてみると、「たいしたことないじゃん」ってボクが思うことも多く、そんな時は当然“叱る”ことなんてできないんですよ。
でも、連れてきた方の形相を見ると、「ああ、こっちもある程度合わせないと、この方に悪いかな」なんて思っちゃうので、「ダメだろ〜、そんなことしちゃぁ…。」みたいな時、「何やってんだろ、俺。この子もわかってるよな。」って。
 
同じように、わざわざボクのとこに来て「ごめんなさい」する(させられる)子もいますね。
専科だと、例えば忘れものしちゃった時とか。
「そんなことで、何で謝らないといけないのよ〜」って思うし、そのことに何の意味があるのかと。
実際、忘れ物に対してメッチャ厳しく叱る方がいるから、「ごめんなさい」になるのかもしれないけど…。
 
【職員室に用事がある時】
入り口で立ち止まり、「失礼します。○年○組〜です。〇〇先生いらっしゃいますか(〜の用事で来ました)。」と大きな声で言ってから入室することになっている学校、少なくないと思います。
そういう“約束”なので、できないとやり直しをさせられます。
その子がボクに用事があって、ボクがその子に気づいていたら、ボクが「入っておいで」と合図すれば済むことなのに、「失礼します。・・・マツザワ先生・・・」と言わされるってことです。
 
職員室に行く。
用事のある先生の姿が見えれば、「失礼します。」と挨拶して、その先生のそばに行き、用件を伝える。
もし、姿が見られなければ、近くにいる大人に自分の素性を伝え、用件を伝える。
 
ま、これについては色々な考え方があると思います。
 
【特別教室への移動】
“整列して”移動する約束になっている場合が多いのかな。
実際、ボクもずっとそうして(させて)いたし…。
「静かに」「素早く」移動できれば整列する必要はないな、というのが今の考え。
逆に、何で並んで行かねばならないのか。
並ぶ時間が無駄だし、そこで「静かにしてください!」「並んでください!」の大声が虚しく響くこと、あるある。
 
学校の「生活指導のきまり」みたいなとこに明記されちゃうと、「先生、ちゃんと指導してくださいね」ってことになる。
「はぁ〜」ってなる。
 
この温度調整、ボクの苦手なことの一つ…かな。

大晦日だけど…「ボクと算数」

先日、算数(数学)についての学習会に参加しました。

久しぶりに脳みそ使って疲れたけど、それは「嫌な感じ」ではなく、「楽しかったぁ〜」の疲れ。

 

ボクは算数が嫌いでした。

 

中学時代、勉強ができたボクは当然算数もできました。

でも、それが本当に“できていた(理解していた)”のではなかったと気づいたのは、高校に入ってからでした。

 

ボクが通った高校は、いわゆる進学校で、1年生の1学期に「数I」が終わっていました。授業はどんどん進む、友達いないから聞けない、できない、嫌いになる…。

全く数学がわからなくなった(化学や物理とかもお手上げでしたね)ボクは、共通一次受験を諦めました。「国語」「日本史」「英語」で受験できる私立大学を受けました。

 

教員になったので、算数を教えることになりました。

苦手なものを教えることに不安を感じながらも、授業をしていました、算数嫌いなまま。

 

「算数」に対する気持ちが変化したのは、前任校で最初に学年を組んだ先生との出会いでした。

その先生は、教科書(の内容は扱うんだけど)ではなく、ご自分でプリント(ワークシート)を作り、それをノート形式に貼っていくスタイルでした。

当時、目から鱗だったのは、式に単位をつける方法です。

例えば、「くしに団子が3つずつ刺さっています、4串あったら団子は全部で何個?」みたいな問題だったら、

3こ/くし×4くし=12こ

というようにです。

“1あたり量”を理解するのには、これいいなって思いました。

そしてボク自身も、大人になるまでちゃんと理解していなかった、

「柔軟剤レギュラーサイズ〜ml◯◯円」「柔軟剤お徳用〜ml◯◯円」どっちがお得!?

みたいな場面で、ちゃんと損をしないように計算できるようになったのです!

どっちをどっちで割ればいいか混乱していました、ずっと。でも、「ml当たりの値段」を出すんだから「円÷ml」で答えは「円/ml」じゃん!

 

そこから、少しずつ算数が楽しくなっていくわけなんですね。

 

先日の学習会でも、算数の問題にチャレンジしました。

3問やって、最後の問題…まだ解けていません(年越しちゃいそうです)。

でもね、楽しいんです、考えるの。

解けないからって、「あーだから、算数キライ!」ってならないんです。

 

不思議ですよね。あんなに算数嫌いだったボクが…。

 

学校でも、昔のボクと同じように感じている子が多いこと、多いこと。

「難しいから嫌い」「意味わかんない」「こんなの役に立つの?」「別にできなくてもいいし…」

また、「できたから“よかった”」「(答えが)合ってたから“よかった”」「一問できたから“よかった”」。

反対に、「できなかったから“つまらなかった”」「間違えたから“嫌だった”」という子も多いです。

 

これって、「できること」を「◯」として、「できないこと」を「×」とされて育てば、そうなっちゃうのも無理ないですよね。

 

なんでもそうだけど、「楽しい」って感じることに対しては自ら「やってみよう」って思うじゃないですか。たとえ、うまくいかなくてもね(今のボクでいえば、ちょっとしたイラスト描くのが楽しい、みたいな)。

 

だから、子供たちには「なんか、算数って楽しいな」みたいなキッカケに出会って欲しいなぁって思うわけです(そして、そんなキッカケを考えるのが、教師であるボクの役目でもあるんでしょうね)。

 

あ、そうそう、式に単位をつけて授業してたとき、「それは、やめてください。教科書通りに“指導”してください」と管理職に“ご指導”いただいたこともありましたよ。

 

プププ…

 

ありがとう

2018年9月10日(月)夜

愛猫のモモが急逝しました。

3年4ヶ月という、あまりにも短い命でした。

 

いつものように、夕食後リビングで過ごしていました。

いつものように、ララと遊んでいました。

いつものように、「もう、ご飯ないの?」という目でこっちを向いていました。

いつものように、水を飲んでいました…。

 

一瞬、あまり聞いたことのないような音がしました。

 

モモがテーブルの下で横たわっていました。

いつもと違う横たわり方でした。

 

「あれ?モモ!変だよ!」

妻が抱き上げます。

「何か冷たくなってきてる…。」

体が動いていません。

 

とっさのことで私もパニクり、「119番」に電話しそうになります。

気を落ち着かせ、近所の動物病院に電話。簡単に症状を伝え、大急ぎで車で連れて行きました。

 

すぐに処置室に。

待合室にいると、先生に呼ばれました。

看護師さんたちが心臓マッサージをしてくれていました。

「自分の力では呼吸ができていない状況です…。」

 

私は、「可能性は低いんだな」と理解しました。

涙が込み上げました。

 

その日の夕食時。

「私、もしララが死んじゃったら、学校とか絶対行けないな。」と長女。

「まあ、学校行く間くらいは大丈夫でしょ…」

なんていう会話をたまたましていました。

 

長女は気にする子です。

「あんな話ししたから…」と自分を責めるんじゃないかと思うと、胸が痛くなりました。

 

20時30分。

 

モモ、私たち家族を置いて、逝っちゃいました…。

 

「早すぎるでしょ!」

 

涙が出てきちゃうんですよ、溢れ出てきちゃうんですよ。

だってね、3歳ですよ、まだ。

何の前触れもなかったんです。

元気がないとか、吐いたとか、下痢してたとか、変な鳴き声してたとか。

いつものようにそこにいたのに…。

 

モモを連れて帰りました。

マンションのエントランスで、妻と子供達が待っていました。

あまりにもあっけなく、あまりにも辛いお別れとなってしまいました。

 

翌朝、安らかに眠っているモモを触りながら、長女が泣いていました。

長男は、ソファにうつ伏せに横たわってiPod touchを触っていました。

「ゲームかぁ。気持ちの切り替え速いなぁ」なんて思ってチラッと覗き込んでみました。

彼はゲームをしてたわけではなく、今までiPod touchで撮ったモモの写真を見ていました。

そして、咽び泣いていました。

 

家族4人で涙を流しました。

一度落ち着いても、ふっとした瞬間にこみ上げてきてしまいます。

 

モモがいなくなってから、長男がララのことをものすごく心配するようになっています。ちょっと姿が見えないと、「ララ、ララ」と探しに行き、「ねえ、ララ大丈夫かな?」と私たちに確認します。不安そうにしている長男を見ているのも、胸が詰まります。

 

私は、「気持ちの整理がつくかな」と思い、ここに書きました。

もちろん、この悲しみは家族4人で乗り越えていかなければなりません。

でも、私自身はもう少し時間がかかりそうです。

 

モモ、たくさんのステキな時間をありがとね。

安らかに眠ってね。

f:id:asakamatsu:20180912150948j:plain モモが好きだった遊び道具 通称「カシャカシャ」

いろんな言葉とチャレンジと

「ピンポーン!」

インターフォンが鳴る。

「アナタハ神を…」という、最近では珍しいフレーズが聞こえる。

「いえ、結構です。」と妻が応対する。

 

長女が妻に尋ねる。

「誰?」

「“クリスチャン”的なものかな…」

「・・・」

 

しばらくして、長女が妻に尋ねる。

「で、さっきの“セバスチャン”って何?」

「・・・あ、ああ“クリスチャン”ね!」と妻。

 

さらにしばらくして、妻が長女に話す。

「もう、さっきのウケたよね〜。“クリストファー”」

「・・・」

「“セバスチャン”でしょ?」と長女。

 

そんな二人の会話をスルーするぼくと長男。

 

 

最近、長男がいろんな言葉について聞いてきます。

例えば、

「“比べ物にならない”ってどういう意味?」

「“サスガ”って、漢字では、何かと“いし”って書くんでしょ?」

「“ハッキング”って何?」

など。

 

「どこでそんな言葉知るの?出てくるの?」と聞いてみると、

YouTubeとかゲームなんですよね。

なるほどね〜。そういうとこで見る(知る)言葉はどんどん入っていくんですよね(自ら知ろうとするし)。

習ってなくたって、結構読める漢字は多いようです(だから、学校でも、習ってなくたってバンバン使えばいいのにって思いますね。話それるけど、自分の名前でも「習ってない漢字は使ってはいけません、他の子が読めないから」みたいなのって、謎のルールじゃないですか?)。

 

そんな長男ですが、今日は夏休みの宿題の一つ「一日、テレビ(ゲームも)を見ない(やらない)」日にチャレンジしてました。

「ゲームやりたいよぉ〜」と訴え続けていましたが、本を読んだり、レゴで遊んだりしながら、なんとか一日がんばったみたいです(僕が帰宅したときには寝ていたので、結果は未確認)。

 

f:id:asakamatsu:20180823231543j:plain「よくがんばった(ハズ)!」としみじみしながら…。

PAと信頼ベースと

「そろそろ書いてみませんか」というメールがはてなブログからきたので。

 

昨日、とあるセミナーに参加したら、なんと、「住んでいる地域が同じ・勤務地区が同じ・職種が同じ」という方に出会いました。

“共通の友達”もいるようで。

 

そんなことがあったので、ぼくとPA、信頼ベースとの出会いを思い出しました。

 

 

PA

Kさんが自分の勤務校に異動してきたことが全ての始まりでした。

最初は、異動してきたスキンヘッドの人が「なんか、“PA”とかって文字を黒板に書いてるよ」みたいな感じで、もともといた我々にとっては未知の世界だったのです。

そんなある日、Kさんがぼくに声をかけてくれたのです。

PAとかって興味ある?」

 

ちょっと待ってくださいね。当時のぼくは“PA”の「ピの字」も知らないわけですから、興味あるとかないとかの問題じゃないわけです。

でも、不思議とぼくは拒否をせず「え、まあ」みたいだったのかな。

結果、西多摩PACEに行くことに。

 

忘れもしません。

受付にいたのはHちゃんでした。

「“呼ばれたい名前”書いて〜」

 

「は?何これ。自己啓発セミナー?」

 

実は、ぼくが最も苦手とする空間でした。

 

あの時は、(記憶が間違ってなければ)

S号がアキレス腱切ったとかで…。

Kんじは「Kさんの不登校だった元教え子」かと思ったよ。

Nイジェルもいたなぁ。

 

なんていうスタートだったけど、そこからどっぷりPAの魅力に惹かれていくことになるんですね。

 

 

<信頼ベース>

で、Kさんに「大阪にすげぇ〜人いるから」って紹介されたのがSいこさん。

 

初一人新幹線(しかも泊まり)。

そして、Sいこさんとの運命的な出会い…。

ボクの中では「神」です。

 

歳をとったせいなのか、「人との繋がり」のありがたみとか素晴らしさとかをヒシヒシと感じることが多くなりました。

ボクはもともと友達が少ないので、余計にそう思うのかもしれません。

ボクは「小学校の教師」としての時間が長かったので、最近は、全く違う職種の方と知り合い、話を聞くことがとても刺激的です。

 

今、そういう機会があったり、自分がそういう場に行ってみようかな、と思ったりするというのは、<PA>や<信頼ベース>と知り合ったおかげだと思うわけです。

 

緩やかだけど、学び続ける51歳です。

「学ぶ」って?

 授業の中で「この時間にどんなこと学んだ?」「学びは深まった?」なんて聞いてしまうことがありましたが、結構難しい質問だったなと思います。

 

 「トンボの成虫の体は“頭”“胸”“はら”からできている」とか「植物が取り入れた水が葉から水蒸気となって出ていくことを蒸散という」なんていう、いわゆる“知識”を新たに知ることは「学ぶ」でしょうね。

 

 では、45分の授業の中で、それ以外のことを“学ぶ”ことがないかっていったら、「NO」ですよね(そういう知識だけだったら、教室で授業受けなくたって得られるし)。

 

 教科書に載っている実験をしていて、「先生!こんなことやったらこんな風になったんだよ!」と、全くその単元の目標とは関係ないことを“発見”する子っているんです。

 でも、その子にとってはすごい“学んでる”瞬間だと思うんです。だから、「いや、今それは違うよ」ではなくて、「おお!すごいじゃん!でさぁ、ついでにこんなこともやってみたら?」とゆる〜く軌道修正しちゃうみたいな。

 

 授業中に“学ぶ”ことって、子供が30人いたら30通りあるはずで。

こちら(教師)が思ってることを「学べ」っていうスタンスにいるとお互い苦しくなるし、「おい、何やってるの?」みたいな声かけが増えちゃう。

 

 ストライクゾーン広く持っておけば、すっごいちっちゃい(と思える)“学び”にも「おお!」って感動できちゃうんです。

 

 そんな感じで自分を振り返ってみると、結構学んでるんですよ、毎日。